上田宗箇は常々こう自慢していたという。
上田「ワシは今まで金銀は見た事がない!」
ゲヒ殿、なんかいってやってくださいよ。といいたいがこれを聞けばこの人達はこう言っただろう。
前田利家「銭があれば世の中怖い物はないんじゃ!」
黒田如水「銭で兵を雇うんじゃ!」
徳川家康「銭があれば何でも出来るんじゃ!」
徳川家康は「ケチ」だと、フロイスにも書かれるほど有名だったが、もちろん趣味だってあった。
なんだか文章があってないと思うかも知れないが、実はその趣味が何と「へそくり」。
しかも鎧櫃の中にへそくりをため込んでいたのだ。
ある日、どこかの大名家(名誉の為、伏せる)の家臣が使いとしてやってきた。
使者「申し訳ありません。のっぴきならない理由がありまして、つまりその・・・・」
家康「何?」
使者「お金貸してください!」
家康は家臣に言って奥から鎧櫃を持ってこさせ、開けさせた。
使者はこれを見てビックリした。そりゃそうだ。
中にはぎっしりと詰まったお金の山。
それもきちんといつここに入れたものかも書いてあった。
つまり「へそくりの記録付き」。
そしてその使者はもう一つ驚いたものを見つけた。
銭に書かれた記録の中には、家康がまだ三河の小領主時代のものがあったのだ!
恐るべき「へそくり歴」である。
ちなみに、某大名家の使者はちゃんと家康からお金を借りる事が出来たそうである。
徳川家康の「ザ・へそくり術」
家康はへそくりが好きだったのだが、どうやってへそくりをしたのかというと・・・・
勘定方「殿。今年度の収入はこのようになりました。
お言いつけ通り兵糧用の米と換金の米を分け、銭の収入はこのようになりました。」
家康「決済する!」
そう、コイツも又、前田利家と同じく自分の勘定は自分で決済していたのである。
但し、利家の場合は例の「そろばん」まで用いて、本当に自分で計算までしていたが。
家康「この数字のキリがいいところまでは銭蔵に収めておけ、半端な銭はもってこい。」
勘定方「はっ!いつも通りにいたします。」
家康「それから奥向きで仕事をしている女房衆も呼んできてくれよ。」
こうして、奥から女性陣がやって来る。
そうこうする内に、勘定の結果、「貫」の単位までは銭蔵へ収められ、「匁」以下の端数の銭が持ち込まれた。
家康「これは、ワシの私的に使う銭(お小遣い)じゃ、数えておくれ。」
侍女「は〜い。」
こうして私的な銭が数えられた。
そして・・・・・
家康「終わったか。では、鎧櫃へ入れよう。」
侍女「は〜い。」
こうしてへそくられた。
こうして貯められたへそくりでアッチコッチの大名にお金を貸した。
そして、味方を増やしてしまい、天下人になったのだ。
ちなみにこの鎧櫃、へそくりの重さに耐えかねて伏見城の床をぶち抜いたという。
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終戦以前の放縦さについては赤松啓介のレポート。全集は明石書店。筑摩学芸文庫から三冊。
ネットにおいては津山三十人殺しの記述で。
いつまぐわっていたかというと夫が農閑期に出稼ぎに行く不在時に。誰の子供かわかりゃしないというのが戦前までの日本だ。
いったいどこが女性差別・男尊女卑というんだよ。いま定義されている近世史も中世史も間違ってる。
女性学なんてカッコつけてる某女子大図書館には収蔵されてやしない。
そういう話するとき赤松の名前出すのやめた方がいいよ
鼻で笑われるから


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