毒親案件です。
母親の首を力いっぱい絞めた話です。
両親は物心ついた頃から不仲で、父が「デブ、ブタ」と罵って母を泣かせてたのをよく覚えてます。
どうも妊娠を機に劇太りした母に愛想が尽きたらしく。
母も女ですから、見栄えを罵られるのは辛かったのでしょう。
よく泣いてました。
当時は気付いてなかったのですが、そのストレスのはけ口は私と私の兄に向けられていました。
遊ぼうと外に出ると血相を変えて母が現れ、人目がある場所で尻を丸出しで叩かれたり。
他の子が食べるお菓子や、玩具付きのラムネ菓子が欲しくてじっと見てると頬をぶたれたり。
しかし最後は決まって泣きながら私を抱きしめ、
「あんたのことを思ってやっている」
と言われました。
それをそのままに信じました。
兄は母に進められ、剣道を嗜んでいました。
腕もよかったので他のママ友から褒められたり、同い年の子らの中でも中心的な存在でした。
そのせいか、マイペースで活動的な「トラブルメーカー」の私を遠ざけようとしてました。
父は仕事とパチンコで滅多に家におらず、母は父に罵られ私を叩いて家出して家におらず。
兄もまた両親と私から逃げたかったのか友人と外でよく遊び(兄は窘められませんでした)家におらず。
部屋から出ると母にぶたれると学んでいたので、保育園がない時はひとり薄暗い部屋でずっとテレビを見るのが日常でした。
これが小学校転入前位。
保育園卒園と同時に、新築の家に移り住むことになりました。
「今の部屋だと、子供部屋が足りないから」と。
最近になって気付いたのですが、引越しにも関わらず挨拶に向かうご近所さんが異様に少なかったように思います。
恐らくですが、母は叫んだり泣いたりが激しかったので、ママ友間でも孤立してたのではないかと。
事実、引越し先は保育園から随分遠い所でしたから。
私は見知った子が一人もいない土地で、入学式を向かえることになりました。
これがまずかった。
その小学校はすぐ近くに大きな幼稚園があるので、8〜9割が「繰り上がり」だったのです。
入学式にも関わらず、あちらもこちらも既にお友達がいる状態。
どうしていいか分からず、一人ぽつんとしていると大変かわいらしい子が声をかけてくれました。
Aとします。
Aは、今日の帰り途中まで一緒に帰ろうと誘ってくれました。
孤立感から挙動不審になっていたので、まさに芥川が蜘蛛の糸の如くという感じで快諾。
しかし、帰りになって突然
「ごめん、Aね、ほかの子と一緒に帰る!ほかの子の方が楽しいから!」
と。
どうしようもなく悲しくて、怒って手を上げてしまいました。
これもいけなかった。
私の母とAのお母様が慌てかけつけたので母に事のいきさつを話そうとした矢先、思い切りグーで殴られました。
「なんてことをしたの!」
と。
Aの口からは、突然叩かれたこと、何も悪いことしてないこと、今初めて話したこと…と、事実無根の証言が語られました。
当然「違う!」と言おうとしたのですが
「口答えをするな!」
とまた叩かれ、どうしようもなく。
「すみません、この子、頭がおかしいんです」
と頭を下げる母にただ愕然としました。
次の日からは、ひどいいじめが待っていました。
これは5年近く続きました。
Aはいい所のお嬢さんだったらしく、ご両親は教員とも繋がりがあったそうです。
後に知りましたが。
当然「頭のおかしい」「突然人を殴る」私に教員がいい顔をするはずもなく。
授業で手を上げれば叱られ、当てられ答えればイヤミを言われ、給食も食べさせてもらえない始末でした。
ずっと廊下に立たされ、運ばれては教室に入っていく当番を泣きながらじっと見つめるだけでした。
結局初めて給食に口をつけたのは、小学二年の頃でした。
大人になった今では分かるのですが、当然教員に嫌われ廊下で毎回蹲る私をクラスメート全員が快く思いませんでした。
「汚い」「触るとキモいのが移る」「あいつはおかしい」と。
上靴がなくなってたり、下校中男子数人に後ろから何度も何度も突き飛ばされたり。
大声でいやみを言われたり、近くを通ると
「ゲッ、○○だ!」
と突き飛ばされて走って逃げられたり。
正直、納得がいきませんでした。
Aのこともそうですし、至って真面目に授業を受けているにも関わらず給食ひとつ食べさせてもらえないことが辛くて。
けれど両親は上靴を買いなおしたり、ご近所さんからの評判が悪いことの方が辛かったようです。
ぼろぼろになって帰ってくると、
「なんで普通に過ごせないの」
と泣いて叩かれました。
兄も転校を機に剣道をやめたのですが、そのせいで激太り。
更に名前がいじりやすいものだったせいで、一転していじめられっ子になりました。
家では
「お前のせいだ」
と兄に殴られることもしょっちゅうでした。
皆がおかしい、何も悪いことはしていない、おかしい。
という気持ちと同時に、Aがクラスの中心的存在だったこと、教員や母は当時自分の中で絶対の正しさであったこと。
なにより、私自身が本当におかしいのではないか…という不安感から、やがて「周りがおかしい」ではなく、「私の頭がおかしい」と思うようになりました。
そこからただただいい子になるように頑張って、なんとかクラスの輪になじめるまでになりました。
とはいっても、クラスの女子から「キモいの頂戴!」と手を差し出され、そこに手を置いて、その触れた手を掲げて男子に「キモいのが移るぞー!」と追い掛け回す遊びに参加できるようになった、という程度でしたが。
小学四年の頃だったでしょうか、姉歯ショックの関係で大手主義に移行し、中小土木業は壊滅的被害に追いやられました。
父もまた自営土木の人間だったので、仕事が激減しました。
更に日ごろの煙草が祟り、肺がんに。
がんは無事摘出できましたが、肺の半分を切除したため食事もろくに取れず、体力が衰え土木業は実質不可能に。
この頃父の暴力もエスカレートしてきていた為、母も「別れたい」と口癖のようにぼやいてました。
その度私も
「別れて欲しい」
と何度も何度も伝えましたが、
「あんたたちのため」
「お父さんもかわいそうなの」
と、別れたいと口にする割に決して別れようとはしませんでした。
また、この件で母は復職、CADを扱うためPCが我が家にやってきました。
これが、転機だったと思います。
当時はHTML全盛期、自分で作ったサイトで全世界の人と交流できるインターネットに感動し、私生活に何一つ楽しいことのなかった私はすぐにのめり込んでいきました。
タイピングも、HTMLも、サーバーレンタルからFFTPの使い方まであっという間に覚えました。
今思うと凄いバイタリティだったなと思います。
そして初めて触れた「インターネット」は、私に「キモい」以外の特徴ともなりました。
PCの授業でフリーズしたほかの子のPCを処理したり、初めてのPCで授業に追いつけない子の面倒を見たり。
そうこうしてる内に一部の子から、「あれ?こいつ意外と悪い奴ではないのでは?」と評判になったらしく、劇的な変化はありませんでしたが、放課後純粋に遊びに誘って貰えたり、クリスマスパーティーにまで呼んでもらえるようになりました。
また、A子の立場も揺らぎ始めました。
小学校低学年の頃はその天真爛漫さが魅力となっていましたが、どうも行き過ぎてしまったようで、所謂「勘違いしたかまってちゃん」的評価となっていたようです。
「インターネット」というものはこの点でも活躍してくれました。
自分の簡単な身の丈と、Aのことをネット掲示板でぼやくと、「Aの友達と遊んでみたら?」とのアドバイス。
最初はそのアドバイスの意味が分かりませんでした。
けれど4年近く家でも学校でもいじめられてきた自分にとって、ネットの情報は何よりも貴重な「自分をいじめない人の、信用できる意見」でした。
試しに遊びに誘って色々話してみれば、出るわ出るわAへの不満。
そこからAの友人らは私と遊ぶ機会が多くなり、Aは孤立していきました。
母と父、そして兄と私の関係も逆転していきました。
今まで「働いてやっている」と母に罵詈雑言や暴力を行っていた父は、がんを患い闘病生活を支え、その後も働いて面倒を見る母に頭が上がらなくなりました。
母も積年の恨みがあったのでしょう、父にイヤミを何度も何度も何度も何度も言うようになりました。
父はいつしか、部屋から出てこないようになりました。
私達に対する母の過保護は更にエスカレートし、門限、お小遣い、着る服、靴。
どれに対しても不満を言えば即叩かれ、あげく包丁を持ち出したり、一般道で私達を乗せたまま
「死んでやるー!!」
と泣き叫び時速120Kmを出してハンドルをぐるぐる回す等。
今までも叩かれることはあったのですが、いよいよ命の危険を感じるようになりました。
また、いじめから少しずつ脱却していく私に対して、兄のいじめはエスカレートしていきました。
兄はどんどん卑屈になって小学6年にして2chへ没頭。
また命の危険を感じる母の脅迫に兄は精神的に屈し、口数少なくただ母の言うことだけ聞くようになりました。
剣道を嗜み、色んなお姐さんの憧れの的だった兄は最早どこにもいませんでした。
小学五年の頃、新人教員が私のクラスを担当することになりました。
所謂熱血教師というやつで、古き良き男性教員でした。
初めはクラスになじむのに精一杯だったようですが、なじむにつれ、私を取り巻く環境が異常だと気付いたようでした。
当時の私は最早その環境を異常だと思わず、「頭のおかしい自分が皆に『キモい』といじってもらえる幸せな環境」だとばかり思っていました。
また、「身を粉にして働く母を一生傍で支えなければいけない」とも。
このことを面談で話すと先生は憤慨。
生活科の時間二つを丸々割いて、クラス、いや学年全体にはびこるいじめに対する指導を行いました。
今○○を取り巻く環境はおかしい。
○○に嫌なことをされた奴はいるか?いるなら教えてくれと。
一人だけ
「○○と喧嘩をしたことを根に持っている」
という男子が手を上げましたが、
「じゃあ、改めて二人で謝ろう。それで終わりだ」
と言い、双方謝罪をして終了。
あとは誰も手を上げませんでした。
私は皆に対してほぼ何もしていないのですし、当たり前なのですが。
そこから全員、打って変わって親しげに話しかけてくるようになりました。
キモいと呼ばれることもからきしなくなり、当たり前の、少女マンガにあるような日常がやってきました。
嬉しかったです。
うれしかったですが、それと同時に「1時間足らずで終わった五年間はなんだったのだろう」という気持ちが沸きあがりました。
この頃から、自覚なく人間不信になっていたと思います。
中学に上がると、更に人間関係に変化が起こりました。
別の小学校の生徒も当然混ざってくるのですが、うちの学校の生徒との比率が2:8という感じで非常に少なく、他校の生徒の、サバサバしてドライな風潮が主流となりました。
すると私は他校の生徒に非常に好かれ、あっという間にクラスの中心に。
同じ小学校の生徒もそれをあやかりに集い、「ちょっとぬけてるけど優しい子」ポジションに落ち着きました。
Aは目も当てられない程に転落し、「ぶりっこ」「勘違い」「気持ち悪い」といじめられる程に。
助けようかと思ったのですが、初日の自己紹介で「前の学校では『姫』って呼ばれてました!」と言ってたらしい話を聞いて、ああ無理だと思い、
「誰も姫なんて呼んでなかったよ」
と他校組に伝え、更にいじめはエスカレートしていきました。
私生活になんの不満もありませんでした。
彼氏もできて、それはもう幸せの絶頂でした。
なのにどこか虚しく、結局私はネットにどっぷりと嵌っていきました。
その頃ようやく、「顔見知りより、ネットの人の方が信用できて話しやすくなっている」という事実に気付きました。
Aは、いつの間にか学校に来なくなっていました。
卒業式にも来ませんでした。
風のうわさによれば、遠くへ引っ越したそうです。
高校も似たような感じで、ただただ温和に過ごしていました。
虚しい気持ちに目を逸らしながら。
そしてこの頃から、母の過保護が最早病気の域に突入しました。
父は、正真正銘の病気となりました。
うつ病です。
その頃父の顔を見るのは年に一回とかそんなレベルでしたし、当然と言えば当然ですが。
父は入院しました。
私は正直父のことはどうでもよかったですし、そのまま死んでくれていいのにと思うほどでした。
しかし母の過保護はこの入院を機にますますひどくなり、友達と遊ぶのはだめ、部活はだめ、お小遣いは報告制(文具しか購入不可)。
学校では付き合いがあんまりよくないけど面白い子、という感じになりましたが気にしませんでした。
ネットがあったので。
修羅場に突入したのは、母がその「ネット」に敵意を向けた頃からです。
この頃私は2chよりSNSに没頭していました。
ネトゲも軽い感じで遊んでいて、学業もそこそこいいペースで保てていたので特に気にせず。
また、いつ裏切るか分からない顔見知りより、同じような不安を抱えながら賢明に生きる人たちとの方が会話が弾みました。
趣味もディープなものが多かったため顔見知りに理解のある人は皆無で、その点でもSNSは貴重な存在でした。
いつしか、実際にお会いしたいとまで思うようになりました。
母はこのことに強く反対し、
「あんたは騙されている」
「東京は悪い人しかいない、あんたが行ったらレイプされる」
「私の友達も東京に行ったからレイプされた」
「そんな趣味おかしい、頭がおかしい」
と。
この頃ようやく、母がおかしいことに気付きました。
ネットの知り合いが東京に多いというだけでレイプされる、と言い出す母に違和感を覚えました。
結局制止を振り切り、バイトをして、「自分で稼いだお金だから文句言われる筋合いはない」と飛行機の予約も自分でとって。
(昔から母の口癖は、「自分でお金を稼げるようになってから言え」でしたから)
そのまま、東京のオフ会へと向かいました。
向かった先は正にカルチャーショックでした。
見たこともない建物が沢山あって、優しい人が沢山いて。
はしゃいだり、喜んだりするといじめられると思ってそわそわしてたら
「楽しんでいいんだよ!」
と。
子供返りしたかのようにはしゃいだにも関わらず、皆嬉しそうにそんな自分を受け止めてくれました。
返り際、自分の身の丈を少しだけ話しました。
嫌われないか不安だと。
皆口を揃えて
「その小学校も、お母さんもおかしいよ。こっちにおいで」
と。
進学先を、すぐさま東京に変更しました。
母はこれに激昂しました。
それからはもう、バトルと言っても差し支えのない日々が始まりました。
まず、塾の月謝を母が払わなくなりました。
バイトをしながら月謝を払いました。
次に、携帯料金を自分で払うように言われました。
バイトの日数を増やして賄いました。
母は、学校に私がバイトをしていると相談しました。
「母が月謝も払わないので」と伝えると不問になりました。
美術系の大学志望だったので、画材費が一番キツかったことを覚えています。
絵画塾の先生も母の向かえもなく、夜遅く遠くまで歩いて帰る私を案じたようでした。
差し入れや、エンピツ等消耗品をプレゼントしてくれました。
そして受験前日、東京に向かおうと空港に行くと
「お客様のチケットはキャンセルされています」
と。
わけが分かりませんでした。
身に覚えがないと伝えましたが、シーズンがシーズンなだけに全て満席で向かうことができないと。
当日も全て満席だと。
新幹線も同じ状況でした。
あまりのことに愕然として学校に連絡しましたが、二次試験もない、と。
ただただ、何も考えることができず、呆然として家に帰ると母が一言。
「よかったじゃない、宿代、返ってきて」
全てを察して母に殴りかかりました。
泣いて泣いて馬乗りになって殴りました。
母も抵抗して私の顔を掴んだり暴れたりしました。
うっとうしいので首を絞めました。
ぐううっと絞めました。
だんだんと母の顔色が変わっていくのを、「あー、赤くなって青くなってる」と静かに思ってました。
なんだか途中で疲れてしまって、手を離しました。
母は吐いてました。
そのままはだしで、そこら中をふらふらと歩きました。
ただふらふらふらふら歩いて、気付いたら幼馴染の家の前に来ていました。
小学校からのなじみなので幼馴染といえるか分かりませんが…。
ひどいいじめにあってる頃も、変わらず遊んでくれた唯一の子でした。
顔見知りの中で、一番信用している子の家でした。
だからこそ家に入ることができなくて、軒先でぼーっと見て、帰ろうとした矢先防犯ブザーが。
慌てて茂みに隠れようとしたのですが飛び出してきたご両親に御用。
目を腫らしあられもない格好で泥まみれになってる私を見て、慌てて幼馴染がお風呂の用意をしてくれました。
物凄く面倒見のいい子なんです。
私が男だったら間違いなく嫁にしたと思います。
お風呂をお借りして、泥を丁重に処理して、ふかふかのタオルで体を拭いてると涙が止まらなくなりました。
すっぽんぽんで半濡れのままただただ泣く自分に、ぎゅうっと幼馴染が抱きしめてくれたのを今でも覚えています。
幼馴染のお母さんも体のあざを見て、ただ事ではないと察したようでした。
その後警察が来て、母と幼馴染一家と一緒に事情聴取となりました。
警察から
「よりにもよって育ての親を殴るとは一体どういう了見だ」
と叱られ、たまらず睨むと
「いつかお前は人を殺す」
と言われました。
声を荒げて説教する警官に無言を通していると仏みたいな顔をしておっさんにバトンタッチ。
「幼馴染の子から聞いたよ、幼い頃からずっと苦労してたって。飛行機の件もお母さんから聞いた。
責めていいんだ、○○ちゃん。
責めていいんだよ。
親だろうがなんだろうが、苦しかったら、責めていいんだ。
でも、手を上げちゃだめだ。
それは誰でもない、君の幸せに繋がらないからだめだよ」
と優しく諭され、また泣きました。
受験は、受けることすらままならず不合格。
近くの専門学校へ通うことになりました。
その後は色々とはしょりますが、就職にも失敗しました。
兄も失敗したといえば大体お察しいただけるかと思います。
最早抜け殻のようになり、ああ死のうか…と思ったのですが、何故か突然「この土地で死ぬのだけはイヤだ、骨だけはせめて東京に持っていってやる」と
最早死にに行くような感じで母に断りもなく上京。
上京して、一年になります。
住まいも職もなく上京したにも関わらず、何故か今は1DKの広々とした部屋と、優しい営業さんに囲まれての事務業を務めています。
というのも、突然の上京を聞きつけた幼馴染とSNS友達が大慌てで駆けつけたため。
幼馴染とそのご両親は死に物狂いで住まいを見つけ、「ネカフェ難民はだめ!」ととんでもない金額をお渡しに。(今でも返してます)
郊外ですが住み心地のよい町です。
仕事はSNS仲間が一致団結して私の特技や雇用に対するこだわりを聞き、一緒に求人求めて走り回り。
住まいも仕事もまさかの一ヶ月足らずで決まり、ただ呆然としました。
どちらにも頭が上がりません。
あの時、母を殺さなくて本当によかったと思っています。
目に映るもの全てが敵のような22年でしたが、今はただ、幸せです。
祖母を殺害したあのニュースを見て、もし傍に自分がいられたのなら…と胸が苦しくなり、思わず吐き出してしましました。
物凄く長くなって申し訳ないです。
もし、ご両親のことでお悩みになられてる方、いじめで自殺を考えてる方がいらしたのなら伝えたいです。
生きていていいことがあるとは限らないけど、生きなければいつかの幸せにもたどり着けないんだと。
人を殺めれば、その道さえ時に閉ざされてしまうんだと。
堪えるのはあまりに理不尽で辛いけど、いつかそれに見合うだけの未来は待っていると。
ちなみにその後ですが、兄は母の人形と化してます。
実家暮らしでこの前は母の指示で韓国旅行に行かされたと。
断ればいいじゃんと伝えたのですが、デモデモダッテ状態。
もう助けてはあげられないだろうなと思ってます。
母はキリスト教にはまり、洗礼を受けたそうです。
その影響を受け、父もキリスト教に。
ただ双方ともカルトの域に達しており、聖書の出来事が事実として起こったと信じてやまないそうです。
小学五年の頃の先生は私の母校で教頭になってました。
怖い教頭先生として恐れられているらしいですが、見に行ったらあいも変わらず熱血教師でした。
SNS友達は今でも続いています。
特にその内の一人とは仲がよく、今住んでる所から歩いていける距離に家があり、周一で遊びに来る仲となってます。
ネトゲも私生活に影響がない程度に廃人してます。
幼馴染は薬剤師になるべく遠くの学校へ。
6年生で、周囲はセレブまみれで気が引けたそうですがなんとか順調にやってるみたいです。
最近は写真が趣味だとか。
修羅場というか人生語りみたいになってしまいました、申し訳ありません。
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唯一こいつの周りだけお人よしが多いということもわかった
はしゃいだり喜んだりしたらいじめられるという辺りにものすごく共感できるのが悲しい
感想はこの一言
フェアウェイが存在しないようだ
自転車乗ってラーメン食べにいったら、一つの街道の途中で3回呼び止められるとかさ。どんだけガチガチに網張って点数稼ぎしてんだよ
って思ったら答えが*1に書いてた
あそこに入信したならもうダメだ
本人以外の家族は全力で逃げるしかない
いつかそれに見合うだけの未来は待っていると。
それには同意しかねる。場合によってはそうしなければ抜け出せないこともある。
うまくすれば過剰防衛や情状酌量が認めれられて実質無罪放免になるし、
周囲の人間があれこれ世話を焼いてくれて、就職や出会いも比較的すぐに見つかる。
ソースは自分と妹。
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